ゲシュタルトに出会って、人生を取り戻したはっちゃんが、時々の旅路の様子、想い、感じたことを記します。
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2016-06-05 (日) | 編集 |
昨日の"たけちゃんのわがままコンサート” で、たけちゃんの
朗々と溢れるテノールで"雨は優しい” との歌を聞きました。
今朝の雨は、紫陽花にも、南天にも、椿にも、ビオラにも
えのころ草にも、苔にも、優しく降っています。
葉っぱに載った雨粒が、輝いています。
水遣り不要です。
優しさが沁みるようです。

こんな中に旅立つ人がいます。
日本人ですが、夫さんとロス在住で、本人さんだけ禅を学びに
来日されて、2か月間龍泉寺近くに間借りされて、熱心に学ばれて
おられました。
有閑マダムのように見受けられましたが、幼少期から"何のために
生まれ、生きているのかわからない” 苦しみを底に感じ抱えて
来ておられたようです。
アメリカナイズされて、何でも怖れることなく表現されて居られると
思っていたのに…
真摯に地に頭をつけるように、謙虚にもなって、老師に質問して
自己の存在に"本当に言われる通りになっている~”と
ハラハラと涙を流されて、ドンドン空に、ピュアになっておられる
様子が、同席をさせてもらってわかりました。
"悟ってはいないけれど … ” と言いながらも、もう大丈夫の
域にまで至られてのロス帰りのようです。
"ロスでも坐ります。 また、12月の接心に参加のつもりで行って
きます ” て。

井上義衍老師語録より
『        無条件
「無条件ですべてが承認できる、なんともない、日々、時々、刻々
そういう生活が坐禅の本質です。
坐禅をするということは、どういうことをやるのかと言いますと、
見聞覚知、一切のものを無条件に、そのまんま受け入れて
なんともない人になるんです。
考え方を、ああの、こうのといってりゃ、きりがないんです。
それだから、そんなものを一切問題にせずに、そういうふうに
問題にしようとする主体を離してしまうんです。
問題にしようとする主人公、それを離してしまうんです。
各自、目をごらんなさい。 眼は一切のものを無条件で受け入れて、
なんともないです。 選り好みはしないんです。
耳も好き嫌いなしに活動しています。
五感のすべてが条件なしの活動です。
五感自体の自活動のまんまに生活する。 そうすると、問題にしよう
とする主人公が消滅するんです。
五感の自活動に学ぶんです。」

道は、眺めたり、理解するものではない。
自ら歩むもの。
日常生活を「坐禅の心境で … 」など余分なこと。


どんなことでもその真っ只中では、それを知る人がいない。
人の見解が死に切っているものです。



空のコップの例えを聞きます。
空のコップは、容量いっぱいありのままをすべて受け入れて
豊かです 。
満ちたら、また空っぽになれる 自由自在さで 在ります 。
執着を手放して、自分と思い込んで可愛がっている自分さえ
その実、どこにも居なかったと徹見して … 生まれながらの 空を
生きるんです。 本来の仏の在りようです …
て。

Sさん、ロスにいってらっしゃ~い !
空はいつも 一緒 

 雨粒





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