ゲシュタルトに出会って、人生を取り戻したはっちゃんが、時々の旅路の様子、想い、感じたことを記します。
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2016-04-14 (木) | 編集 |
4月も半ばです。
日々刻々と変幻自在の在りようを、桜に見ています。
満開を過ぎ葉桜となって、瑞々しい緑の中に薄ピンクの花弁が
あちこちして、風に乗って一枚一枚と散っています。
二度と同じ時を生きてはいない、この瞬間の生命の営みです。
当たり前のあるがままの自然は、良し悪しも、好き嫌いも
超えて、今・この瞬間をただ生きて、生きてという瞬間には
もう後かたが無い程に前の姿は無くて … 色即是空・空即是色
の在りようで 在ります。 

静岡県浜松市の龍泉寺の先代の師家 井上義衍 老師
(昭和56年3月2日に 88歳で遷化…ご逝去なされた)
の語録より掲載させて頂きます。
『 入門の人を待つ
お釈迦さまは六年の難行苦行に見切りをつけられ、
菩提樹下の坐禅に入られ、ついに前人未到、
もの自体の真実である、人とものとの直結せる道具
としての六根、六境の働き、疑いようのない現実、
一如の関係にある事実に徹せられた。
釈尊や祖師方と同様に、
私はすべての人の苦の根を知っている。
人の苦悩、迷いの根を取り除くことを知っている。
誰もが、現在迷われない、迷うことのできない処に居ながら、
その現在の自分を知らないで、外に向かって求むる
悲しさをも、よく知っている。
それも、他人の力を借りずして、自分が自分で自分自らを
確実に救い得られる道をも知っている。
これは、人類すべての一大問題である。
信ずる者は来たって打坐せられよ。
疑う者は来たって理解出来るまで親しく手を取って話し合う
ことを待っている。
真実を求め願う者は、情を尽くして語ることを希望するものである。』

この 井上義衍老師 の 5人のご子息が お弟子となって 至宝の
教えを受け継がれて、現在 ご長男の 井上哲玄 老師 82 歳 が、
カフェ寺等で、迷いようのない在りようにいざなって下さっていますし、
末っ子であられる 井上貫道 老師 も 乞われて あちこちで お話し会
などで教えを伝えて下さっています。
私たちは、元々 ひとり一人誰もが 本来 仏で、気づいても
気づかなくっても この仏 … 迷いようが無く宇宙とひとつの仏性を
生きている というのが現実だと。

ご縁をありがたく頂いて、生きてあるうちに教えを学べる幸いは
何ものにも代えがたいです。

今日も好日、感謝のひと時です。
ご覧下さっているあなたに感謝です

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